撤去システムについて
撤去システムとは、一つの装置である。それは、作品が瓦礫へと解体されることを展覧会体験の一部として組み込むために用意された。十分な鑑賞の後、鑑賞者は撤去申請を行うことができ、申請数に応じて、15:00と17:00にパフォーマンスが行われる。パフォーマンスでは、作品がただ失われるだけではなく、「物体 X」が新しくインストールされる予定だ。そちらもご鑑賞いただきたい。15:00と17:00に申請数が基準値に達していない場合、パフォーマンスは行われない。パフォーマンスは、ぶぶ漬けの真意を確定するための最後の1ピースとなることだろう。15:00と17:00になってもパフォーマンスが始まらないとするならば、撤去権提出数が足りていない証拠だ。友人を展覧会に誘うことで提出数を底上げするといいだろう。また、撤去された作品は翌日には再搬入される。
撤去システムは、一時的な装置である。それは、椿象が、京都の現代美術の状況に適応するために設けられた。
撤去システムは、個々の作品が取り組むテーマを補完する主題を持つ。作品/作家/観客が属している環境とアクターの間の関係性である。その点で、個々の作品と無関係ではない。作品/作家/観客が置かれている景色やネットワークはどのような形をしているだろうか。その主題を取り上げ、体験へと落とし込むにあたって、”京都市が運営する違法駐輪の撤去制度” が生み出す歪んだ風景をモチーフとする。
京都市は景観保護と交通の整備のために、個々人の自由で無責任な行動(=違法駐輪)を取り締まっている。その取り締まりは、行政組織、民間、経済などさまざまなネットワークの力学関係の上で実施されている。違法駐輪された自転車は、いつの間にか姿を消し、その代わりとでも言わんばかりに地面に張り紙が設置される。撤去された自転車は廃棄されるかリサイクルされるが、張り紙は、その後もしぶとく残り続ける。張り紙の裏側は、とんでもない粘着性なのだ!雨風にさらされ、生き通う人々に踏みつけられた張り紙は、もはや原型を留めることはない。
ちりぢりに破れ、白い斑点と化し、具体的に路上の一部となっていく。景観を保護しようとしているのか、汚しているのか区別がつかないオブジェクト。京都市を中心とするネットワークは、そんなものを産み出してしまっている。そのチラシを無理矢理にでも剥がそうとすれば、裏側の薄汚れた粘着質が全身を伝う。薄汚れたチラシが見せる表情は、制度が抱える限界であり矛盾である。とはいえ、違法駐輪が取り締まられるシステムを批判したいわけではない。システムの恩恵を十分に受けている私たちが目を向けたいのは、景観と交通を巡る環境管理と、それによって誕生したオブジェクトである。
京都のアートシーンにおいて、若手が生み出した放置現代美術は十中八九撤去されてしまう(という錯覚すら抱かざるを得ない)。誰の手によってでもなく、システムの合理性によって。おそらく現代美術は生き残るだろう。しかし、私たちのような立場から見える現代美術の姿は限りなく透明に近い。差し出されたぶぶ漬けを前にして姿を消すことなく、あくまでぶぶ漬けに食らいつき、ぶぶ漬けの差出人(システム)を驚かせることを目論まんとして、システムを実行する。